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| - | - | - | 2010.09.02 Thursday | ▲ この広告は60日以上更新がないブログに表示されております。 新しい記事を書くことで広告を消すことができます。 民主党の世の中になって…
民主党が政権を取ることを決めた直後にわたしが書いたエッセイ
「民主党の世の中はFANTASYがあるのか?」 を振り返って、読んでみた。 あれからはや、一年近く経とうとしている。もう今は8月。既に民主党で2人目の菅総理大臣は、参議院選挙の敗北を「わたしの不用意な消費税に関する発言」という一言で片づけているような印象だ。しかし、いろんな論評があるように、それだけでないことは明らかだ。民主党が政権を取る前に作り上げた幻のマニフェストはどこへ行った? 党内抗争の結果、リーダーの軽はずみなぶれた発言が、どれだけ、国民を不安にさせたかわからない。鳩山前首相や小沢一郎前幹事長の政治と金の問題は?鳩山前首相の普天間問題を迷宮入りにするかのような失態… こんなことに、国民は、失望したと言っていいのではないだろうか。 あのとき、民主党が世に出したマニフェストは、それなりに、国民の心をとらえ、夢を与えた。当時から、自民党が「ばらまき」という批判はしていたものの、今となっては、ばらまきにもなりえなかった… まるで、禁煙できない喫煙者が壁に貼った「禁煙」の文字ではなかったかというように風刺されている。多くの国民が、あの幻のマニフェストに踊らされていたのだろう。 やはり、政治に戦略というものは、必要だろうし、欠くことはできないかもしれない。経済も欠くことはできない。しかし、主権者たる国民の心は、そんなに簡単に騙され続けやしないのではないだろうか。だから、わたしが、民主党の世の中にFANTASYがあるのか?という疑問を持ったのかもしれない…。FANTASYというものは、単純に富があれば成り立つというものではないし、むしろそんなものとは固く結びつかない方がいいのではないだろうか…。人々が充実感を持って生きるためには、最低限の生存権を保障するセーフティネットは必要だと思うが、それ以外の価値観は、その人の心の中に、それぞれの形で存在するのだから、それを大事にする政策を考えることが大切なのだと思う。 そんなことを書きながら、わたしは鳩山前首相にも同情的だった。今度の菅首相についても、TVで見るたびに心配になる。野党時代、自民党を負かそうと論戦していた時の方が活き活きとしていた。苦渋の顔を見るにつけ、国民やマスコミも、悪いものを全て政治家に押しつけているようで、実は、日本国民全体が、もっと、心の中に、しっかりとしたFANTASYを見つける努力をするべきなのかもしれない… なんだか、そう思う。菅首相の苦渋の表情は、日本人の苦渋の表情を映しだしているにすぎないのではないだろうか…。 小沢一郎も他の野党も、自分たちだけが生き残ることだけを考えないで、日本のことを真剣に大切に考えてほしい。もちろん私たち国民も…。 蟻族
![]() 急激に経済成長した中国では、近日、上海万博が開かれるようです。今朝のTV番組で取り扱っていました。そこでは1970年の日本の大阪万博と少し重ね合わせるかのような趣向も見えました。なにをクローズアップしていたかというと、中国は急激な経済成長をして、日本のように、多くの学生が大学に行き、大学を卒業するような勢いになった、しかし、卒業した若者たちは、月収一万数千円程度の人たちが多く、満足な生活環境を得られていないという、そんな若者たちのことを「蟻族」という言葉でとらえて、それが、流行語になっているということのようなのです。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20091104/208855/ 上海万博を直前に、いろんな人材が必要だというのに、有用な人材が集まらないところを糸口に、そんなことを報道していました。そして、その、人材育成がまだ整っていない中国に、日本が進出するビジネスチャンスがあるというところに話をつなげていました。人材派遣業というビジネスです。 しかし、そのビジネスが、日本の今の現状を作り出しているのもまた事実ではないでしょうか。正規社員が減り、非正規社員が増えた、今の憂うべき日本の状況を作り出した、そんなビジネスを、中国に進出するチャンスとして、またとらえている様子が、なんとも、わたしには滑稽に見えてしまいます。 どうして、私たち人間は、こうも、経済に支配されてしまわなければならないのでしょうか。人間が生きていくためには、経済の発展がないといけない… どうしてここから逃れることが出来ないのでしょうか。はじめに人間がありきで、経済はそれに付随して起こってくるものなのでしょうが、どうも、人間が、経済に振り回されてしまって、人間の本来あるべき姿を失っているように見えてしまいます。 考えてみれば、「蟻族」… 蟻って、群をなして、みんなで共同して生きている姿の象徴なのではないでしょうか。それを、中国ではいま、むしろ滑稽な姿の代名詞にしてしまいました。将棋の「歩」や「蟻」を滑稽なものの代名詞にしていていいのでしょうか。侮蔑していては、なにか罰が当たりはしないかと思うのは私だけでしょうか。 1970年の大阪万博の時に、わたしは確か小学校2年。叔父が大阪にいたので、生まれて初めて、フレンドシップという一番小さなプロペラの飛行機に乗って大阪に行った思い出があります。アポロ11号が月から持ち帰った、月の石を見るために、大分並んだ覚えがあります。終戦後、日本を復興するために、わたしたちの祖父母の時代、暗黙のかけ声で、国民はみんな蟻のように歩のように、みんなコツコツと努力してきたのではないでしょうか。その結果、その先を行くアメリカへの羨望がいまだにあった、当時の長蛇の列の中に、小学2年のわたしの姿もありました。 民主党が政権を取るためにほんの半年前に出したマニフェストが、今ずたずたになし崩しになりつつあります。これだって、人間が、経済に振りまわされて、政治家が国民を騙そうと思ってしたことではないですが、結果的には、政治家も国民も、経済という、数字のマジックに振り回されているように思います。 かといって、わたしには、その先の風景が見えるわけでもないのです。中学生の時の社会の授業を思いだします。好景気と不景気がある、インフレとデフレがある、そんな授業の時に、いつも発言や発表のない、口数の少ないわたしが、突然、手を挙げて先生に質問したことを…。 「不景気にならないようにすればいいじゃないですか? インフレにならないようにすればいいんじゃないですか? どうして、それが防げないんですか? よくわかりません」 たしか、そのとき、教室に笑い声が起こったように思います。私は成績のいいほうの生徒だったし、どうしてそんな生徒が、そんな馬鹿な質問をするか?という風だったと思います。しかし、いまだにそれがわからないのです。 頭がいい人間は、自分や自分の周りにに数字のマジックを誘導することに、どうしても長けてしまうんでしょうね。見返りを求めないことって、本当に誰にもできることではないです。生きるか死ぬかの究極の状況では、人間はどうしても、のどから手を出しても、数字のマジックを自分のものにしてしまうはずですから。 実益 … 勇気
「実益がないから、これはやるメリットがない」
こう書いたら、みなさん、どう思われますか?金銭的な益や、便宜的な益に取られますよね?おそらく、多くの人がそういう意味にとると思います。そして、ある特定の団体の実益といえば、少なくともその集団に属する人たちを説得する意味では功を奏すと思います。そこで、それを日本の中で最大の説得…ということまでいくと、その実益というのは「国益」ということになると思います。「日本の国益のため」という説得のし方だと、大部分の人が反対できないようになるのではないでしょうか? しかし、そこまでいっても、少数の割合の人は納得しないのではないでしょうか?それは、日本人だけでなくて、全世界の人々、すなわち、人類の実益にならないといけないと考える人たちでしょうか?もちろんそれもあると思いますが、もし、「人類益」というところまで行っても、それでも説得に応じない人もいるのではないでしょうか?もうここまで書くと、人類だけでなく、すべての生物、命あるもの、・・・・それでもまだいきつくところは、際限がなくなるのかもしれません。 話をまた最初に戻します。もうひとつの角度から「実益」という言葉を眺めます。最初に問題提起をしましたが、金銭的経済的な益だけを意味するものでしょうか?金銭的にはむしろ損をしても、結果的には、益をもたらす、あるいは、その人の精神的なところで、十分な益をもたらすということもあるのではないでしょうか?それを「実益」と感じる人ももちろんいますでしょうし、そんなものは「実益」とは言わないという人ももちろんいます。いや、そんなものこそ、本当の「実益」なのだと、言う人もいるでしょう。 つまり、人ぞれぞれ、その感じ方は違います。それは考えてみれば、当り前なのですが、そんなことを、みんな承知していての議論ということを前提の上で、いつもわたしたちは、「語り合い」や「話し合い」をしています。そしてそこで、初めて、この人とわたしは違うのだと、認識したり、あるいは、話す前から、あなたとは違うのだと、わかった上で、話をしていたり、いろんな状況があります。 そんなことを考えていると、違うことが当たり前で、違うことが素晴らしいという、一人一人の人間が、語ったり、話し合ったりして、一つの「同じ気持ち」になったような感覚になったり、一つの「同じ意見」になったりすることは、とても、偶然で、難しいことが、なぜか一瞬のうちに起こるような気がします。もちろん、妥協の産物の多数決の原理であったり、人間関係が決裂したり、話し合いが流会に終わることもありますが、考えてみれば、そっちの方が、自然な成り行きだというふうにも考えられます。 わたしたち、一人一人は、みんな違った、それぞれの自我を持った素晴らしい存在です。しかし、その、素晴らしい存在としての個性も、絶えず、変化し続けているということです。同じ気持ちになったり、同じ意見になったりすることは、その証拠な様な気がします。一対一の関係も、どうせあの人にこんなことを話しかけても、同じ答えが返ってくるだけだ、と思っていれば、その変化は生まれません。話し合いも、誰かが、思い切って新しい意見を切りだすことをしなければ、動かないままになってしまいます。だれかのそんな、少しずつの勇気が、ある人間関係を、ある団体を、また、日本全体を、世界全体を、そして、宇宙全体を、いつも動かし続けているのではないでしょうか? その「勇気」って、いったいどこから生まれてくるのでしょう?よくわかりませんが、気づいた時には、そう、口に出している、発言している、ということがほとんどなのではないでしょうか?どんなすごい政治家も、実は、そんなものなのではないでしょうか?人間なんて、金銭的便宜的な意味だけの「実益」という意味の先見性だけをとらえても、どれだけ、正確な力を持っているかなど、とても信頼のおけるものではないと、わたしは思います。先々でどんなことが起こっても、この人なら、こんな信念で、しっかりとしたかじ取りをしてくれるのではないだろうか?という、言いようのない「信頼感」を、より多くの人から得られる人が、リーダーになっていくのでしょう。つまり、金銭的経済的な、数字の上での「実益」にとらわれると、そんな、信頼のおける人物像や、人の考えや、国の政策も、見えなくなってしまうのではないでしょうか。 今日、田原総一朗がやっている、テレビ朝日の「サンデープロジェクト」が21年の幕を閉じました。わたしがここで書いていることと直結しているとは思いませんが、彼が、日本の行方をになっている数々の政治家を相手に、手厳しい質問を突き付けていた、その原動力となった「ジャーナリスト魂」(今日の放送で周りがそう表現していました)は、わたしなりに、こういうものではなかったか?と思います。それは、先のことなどわかるはずもない、日本の将来など誰も正確にはわからない、そんな愚かな人間の中で、 「おまえは、その責めを負っている人間じゃないか! 少なくとも わからないなりに 国民を前に 勇気をもって言ってみろ・・」 こう、言っていたのではないか、と思うのです。結果は、その次についてくる、人間が分かるはずもないのだ、ということではなかったのでしょうか…。 ポエム と 宗教心
日ごろ私たちは、どうやったら、この時間を無駄なくうまく使って、効率的な生活が出来るかどうか?そんなことを考えていることが多い。それは、多くの人が、無駄に時間を費やして、その結果、空虚な気持ちや 損をした気分になった経験があるからではないだろうか…。
金銭的に損をしたら、もちろん気分はよくはないだろう。多くの時間を費やしても、なにも経済的な生産活動には直結しない結果になれば、骨折り損のくたびれもうけ、という気分にもなるだろう…。 しかし、そんなことばかり、気にしていても、いつもの生活も、その人の人生も、つまらないものなのではないだろうか。もちろん、いい生活をして、お金や身の回りの環境に何も困ることなく、セレブでリッチな人生を送れれば、そんなことも気にも留めなくて良くなるだろうが、誰もがそうはいかないものだ。 これは効率的ではない、無駄なことかもしれないと思いながらも、自分の気持ちがどうしても、そこに突き進んでしまうことがある。それをやったら、金銭的には損をするかもしれなくても、どうしても、それをやってみたいと思うことがある。ただ、物欲というわけではなく、ファンタジーや夢を追ってしまう…というか…。 子供の時や、まだ、社会に出ていなかった学生の頃の夢もそうだが、あまり、金銭欲というわけではない、なにか、子供のころのアニメの主人公に見た正義の味方を求めるような気分が、人生の半分を過ぎた自分に、今も残っているようだ。 この半年間、わたしは、ある人のことを信じてみたかった。人は皆、パンのために職業を持ち仕事をしている。その人がやっていることは、パンのみならず、支配下に置く人たちの数を増やし、自分の勢力を増したい一心なのか?と、疑問を持ちながらも、その人のことを、わたしなりに、わたしの尺度で、どうしても信じてみたかったのだ。 わたしは、少しばかりの宗教心で、自分の生活を眺めなおして、人生を送っていく意味を考えることにようやく気づき始めたところだが、今回の経験で、宗教心とは別の次元のものを、その人の中に感じたような気がする。 それは、何かと言えば ポエム(詩)である。 言葉は、良くも悪くも、その人の心を表しているだろう…。その人が、自分のことを他人にどう見せようかと意識して、言葉を巧妙に操作している可能性もある。こう書いている私だって、いろいろと読み手の反応を考えて言葉を選んでいることだろう。そして、良くも悪くも、その言葉によって、人の心を動かしているのは間違いない。 いろいろ試行錯誤しながら、その人と歩んでみたら、その人のポエムは、わたしの心に、また、ちゃんと、戻ってきた。パンは無視できないが、ポエムを読み感じる心を持ってこそ、人が生きている価値があるのかもしれないと思った。 その人は言った。 「あなたは、少年の心を持った人だ。 わたしたちも、少年少女でありつづけたいと思っているのです」 少年少女は、ポエムを、人の心に伝え続けたいのだろう…。あなたも、あなたも、少年の心を 少女の心を ずっと持ち続けてほしい… そんな風に、思った経験だった。 鳩cafe
鳩山首相が、新年から、twitterと、ブログ「鳩cafe」を始めたようですね。
twitterはツイートしても、フォローしてくれる人がいないとだめなんですよね^^;昨年秋にアカウントだけ作ったけど、だれもフォローしてくれる人がいないので、放置。 ←にバナー付けました。誰かフォローしてください。 聞いたところによると、もう、鳩山首相のフォローは4万人を超えたらしいです。 貧困率15.7%
新政権が、このほど、日本の貧困率を発表しました。年収が約114万円に満たない人の割合だそうです。15.7%。これは先進30国のうち下から4番目くらいにあたります。アメリカと肩を並べているようです。前政権が続いていたら、この数字も少しひた隠し気味に伝えたのかもしれないと、今朝メディア各局が報じていますね。
メディアの論議は、このことを問題解決の視点で、政策の方法論としてとらえることが多いようで、失業者の生活を支える論議に結び付けています。それはもっともなことで、新政権に一生懸命やってもらいたいことです。しかし、ある局で、ある作家が言っていました。 「昔、外で、七輪でさんまを焼いていて、醤油をお隣からもらって 食べた、その幸福感・・・ そんなものが今失われていますね…」 わたしは思います。中流以上の、明日の生活にほとんど不安のない方々が、そんなことは、自分には無関係な話だと棚に上げてしまわないで、そういうことも今一度考えてほしいということです。夢というと、一流になること、セレブになること、そんな風潮が一部にはあります。それだけがイコール幸福なのでしょうか?今一度立ち止まって考えてほしいのです。 決して、僻み根性で言っているのではありません。最低限の生活が保障されれば、お金や贅沢の裏うちはなくても、幸福感や、自らが生きる価値、生きがいを見いだせる可能性はたくさんあるのではないでしょうか。しかし、最低限の生活さえも確保できなければ…、明日への希望も持てなくなります。 そういう意味では、憲法の生存権というのは、やはり、守られなければならないのではないでしょうか?歴史や文明を進めたものは、ある意味、格差かもしれません。これまでの人類の進化や発展は、そういう、格差の中で犠牲になって死んでいった人たちなくしては達成できなかったはずなのです。そういった反省から人間は「生存権」というものを考えだしたのではないでしょうか。 年間に3万人も自殺する日本。かつて、年間に死者が1万人以上もでるようになった交通事故を、日露戦争の死者よりも多いことから「交通戦争」ととらえた、わたしたちは、この状況を「心の戦争」ととらえなければならない、と五木寛之は書きました。その心の戦争はなぜ起きているか?それは、わたしは、かつて1億総中流と言われた、中流以上の階層の人たちが、あることを忘れてしまったからという気がしてなりません。 それは、貧しくてもなお得られる心の幸福感です。何とかパンが得られて生きていける…そういう喜びを少しでも心に得られる…そんな瞬間です。そんなにお金はなくっても、生きている実感や生きがいは得られるんじゃないでしょうか?なにも贅沢なものを持っていなくても。想う心と体一つあれば…。 何より大切なことは、中流以上の日本国民が、そんな想いを取り戻すことだと、わたしにはそんな気がします。夢は、セレブになることでは決してありません。そして、FANTASYは、金銭的に貧しくたって、豊かにイマジネーションできるのです。そういうことを、忘れがちになっていませんか…。 人間の運命
過去の「大河の一滴」などに、五木氏の北朝鮮からの引き上げ体験の告白が書かれているが、本書は、今まで、何度も書かれてきた、それらにはなかった、事実を初めて告白している。 ソ連軍から逃れ、北朝鮮を脱出するために、38度線を越えて南下しようとする五木氏家族。その中で、一度は、幼い妹を残して脱出しようとしたという告白だ。その脱出作戦は失敗に終わり、また、妹と合流することになったが、そのタイミングが少しでもずれていれば、妹は戦争孤児となっていたであろう・・・・、という書き出しで、それを、「人間の運命」を語る布石にしている。 そして、彼が、今までずっと、どの著作でも語ってきていた、親鸞の「悪人正機説」、それを弟子の唯円が書いた「歎異抄」を引き合いに出して、さらに深く考察している。 善人だけが救われるのではない・・・。 悪人こそが救われる・・・。 世の中に、悪人でない人がどれだけいるだろうか・・・。 いやいや、人は、悪を犯すことなく生きられるはずがない。 一日一日、わたしたちは「悪業」を背負って生きていく。 変えられない「宿業」をもって。 人間、決して、きれいごとだけでは済まされない。どんなに善人だと、自分のことを自覚している人でも、誰しも、少しの悪を積み重ねているのだ。毎日毎日、その少しの悪をいちいち悔いていても仕方がないと、割り切って生きているに過ぎない。というか、生きていく以外に道はない。 わたしたちが生まれながらにして持つ、どうしても変えられないものを、五木は「宿業」と呼び、人生の中で「運命」ともいうべきがあるとすれば、こうだということを、この書の中で書いている。 わたしたちは、生まれながらにしてもつ「宿業」に縛られる。そして、人生においては、どうしようもない?「運命」というものがある。そのことを、わたしたちは否定することができない。 五木は、あとがきで、「運命」について、こういうことを書いている。 「運命と諦めて、身を任せてしまうのではなく 『明らかに究めて』 運命を進むのだ」 わたしは、以前 http://tosan.jugem.jp/?search=%A5%C8%A5%E9%A5%F3%A5%D7%A4%CE%A5%B2%A1%BC%A5%E0 こういうことを書いた。 「身を任せる」と。これまでこのブログで何度も書いてきたかと思うが、人生のそのときそのときで、ふっと心の中に舞い降りた「想い」に、人生はゲームのように、「この身を任せて」しまうのだ・・・というのが、わたしの表現である。 「身を任す」「任せない」のところが、大きな違いであるかのように感じるかもしれないが、実はそこにはあまり差がない。『明らかに究めて』というところが、わたしの表現で言えば、「ふっと心の中に舞い降りた想い」を大事にすることに匹敵しているということではなかろうか・・・。 この書は、これまで以上に、人生の核心を突く問題に迫っていると、感じた。 谷垣禎一
自民党新総裁に、谷垣禎一が決まった。
メディアの論評は、変わり映えしない自民党の総裁というところだろうか。しかし、わたしは逆のことを言うようだが、自民党は変わらないほうがいいのではないだろうか?と思うのだ。 総裁選の中で、河野太郎氏が、老兵はスタンドに上がれと言ったところが強烈にインパクトがあり、谷垣氏や西村氏が、先輩を重んじるという立場で控えめに発言していたところが、なにかひ弱に見えはしたが、よくよく考えると、年長者を排斥する論理だけでは、論戦としては、常識が疑われたのではないだろうか。 谷垣氏は、東大出の弁護士でエリートという感じは否めないが、東大も浪人で、しかも入学後も山登りに没頭して8年も大学生活を送り、司法試験も何度も落ちたそうで、以前の総裁選の時の借金も今だに返済できていないという。鳩山総理とは、そういう点では非常に対照的だ。 総裁就任後のインターネットの動画を見た。新総裁としての抱負と党再生に向けての意気込みを語っていた。相変わらず、控えめな語り口だった。 「何か思い切ったことをしなければならない」 といいながら、こうも言った。 「自民党は、今までの、地域の絆(従来からの谷垣氏のアピールするキャッチコピー)を大事にして 住民の方々の思いを吸い上げる努力をしていかなければならない」 それなら、変わらないくてもいいのではないだろうか? 先日、ある会合で、わたしが住む市のある市議会議員と懇談した。その議員は、何年も前からわたしの認識の中にあった人だが、初めて知ったことがあった。彼は、わたしの亡き父が、最後に校長として赴任した小学校の校区の出身だった。 「お父さんは、優しいよか人だったですね・・・」 なぜか、わたしはこの一言がうれしかった。あまり理屈はない、地域の人たちと親しめる政治家・・・。谷垣氏がいう、絆というのは、たとえば、こういうことなのではないだろうかと思った。 確かに、自民党の政治は、民主党や河野太郎氏が言うように、膿を出す必要があることもたくさんある。しかし、戦後60年、地域の人たちと一緒になってやってきた、そういう言葉にはできないが、大事なものは失われてはないのではないだろうか。変わるべきところもあるだろうが、無理に変わる必要がないところもあってしかるべきではないだろうか。変えるのは民主党に任せればいいのだ。戦後の日本人そのものを象徴する政党であったことは間違いない、と思うのだ。引き継いでいくべき絆、保守とはそういうものなのではないか・・・。 希望学
数日前のNHKのクローズアップ現代を観て、初めて「希望学」なる学問があることを知った。 |
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